還らずの森

〜第二章・18〜



「ま、森といっても富士の樹海のような広い森じゃないんだけどね」
 そう言って、園長は僕に少し微笑みかける。
「こんなところかしら。私が話せるのは」
「有難うございます。……あと…」
「…なに?」
「本当に、茂木 衛という人に覚えはないんですか?」
 ここに来て、彼の名前を出したとき、園長が少しだけ反応したのを、僕は
見逃さなかった。
 園長は、先程と同じように、また僕を真正面からじっと見つめる。
「……婚約者だとか言ってきた人ね?」
「そうです」
「実はね……名前を聞いて、あれ?とは思ったのよ」
「本当ですか?」
 僕は思わず、身を乗り出す。
 すると園長は「ちょっと待って」と言い、両手をひらりと振って、申し訳なさ
そうな顔で、首をかしげた。
「婚約者かどうかなんて、わからないの。ただ聞き覚えのある名前だったか
ら、もしかして…って」
「茂木さんて、やっぱり聞いたことがあったんですね」
「いいえ。茂木さんて名前は初めて聞いたわ」
「え?」
 僕は椅子に座りなおす。
「私が聞き覚えがあるのは名前の方。まもるさんって言うんでしょう?」
「ええ」
「由希が、ここの施設に来る前に、私は手続きの為に由希に何度か会って
るんだけど、その時一緒に男の子がいてね。確か、まもる君って…」
「まもる君……。じゃあやっぱり婚約者? でも何で宮沢は覚えていないん
だろう?」
 呟くような、僕の独り言を聞いて、園長は続けた。
「もしかして、由希とそのまもるさんは知り合いなのかもしれないけど、由希
は、忘れてしまっているんでしょうね……」
「まあ、子供のころに遊んだ友達は、意外と忘れてしまっているし…」
 そう言うと、園長は無言で首を振った。
「……由希はね。子供のころに遊んだ友達だけじゃなくて、どこに住んでい
て、どんな生活をしていたのかも、ほとんど忘れてしまっているのよ」
「え…」
「お父さんの事でね。その事件の辺りから、それ以前の記憶が、消えてしま
っているのよ」
「………」
 だからか……。
 僕は、ついこの間の事務所での会話を思い出す。
 お父さんは、死んでしまったわけじゃない。
 いなくなっただけ。
 突然、父親が殺人犯として捕えられる。
 近所の住人が、指差すだろう。
 あの子は、殺人者の娘だ。
 あの子に近寄ってはいけないよ。
 逃げろ。
 逃げろ。





「遊佐君……?」
「あ」
 僕は深く考え込んでいたらしい。
 園長がいつの間にか僕の横に立って、心配そうに顔を覗き込んでいた。
「すいません。ただ、確かにそんな事件があったら、ショックで記憶が飛ん
でしまうかもしれないですね」
「そうね…。だから、今でも昔の事を思い出そうとすると、激しい頭痛がする
みたいなの」
「…そうですか」
 それは、そうかもしれない。
 僕も、そんなに酷くはないが救急車やパトカーの赤々としたサイレンを見
ると、気分が悪くなることがある。
 多分、子供のころに母親が死んだときの情景が思い出されるからなのだ
と、自分なりに判断していた。
「色々と有難うございました」
 僕は立ち上がり、軽く会釈をする。
「少しでも、役に立てたなら」
 そして園長は、微笑む。
「それにしても、今時珍しいくらい礼儀正しいのね。この施設にも中学生だ
けど男の子がいるんだけど、君とはえらい違いだわ」
 感心したような目つきで見られ、僕は少し頭をかいた。
 自分では、そうは思わないのだが、こう言われるのは今に始まった事で
もない。
 それに、大人の女の人に褒められるのは、照れくさいが悪い気はしなか
った。
「何してんの〜?」
「あっ…」
 どたんばたんという、とても女が歩いているとは思えない足音が響いてき
たかと思うと、幼馴染が向こうの廊下から駆けてくるのが見えた。
「トイレって言ってたのに、こんな所で何してるのさ」
「その…」
 僕が口ごもっていると、横から園長が助け船を出してくれた。
「ごめんなさいね。私、高校生の男の子と話がしたくて、つい呼び止めちゃ
ったの。学校のこととか聞きたくて」
「はあ」
 美凪は、僕と園長を交互に見ていたが、納得したのだろう。
 部屋で宮沢も待っているから、とだけ言うと、先に戻って行った。
「すいません。助かりました。あいつ煩くて…」
 お礼を言うと、園長は小さなウインクをして、またにっこりと微笑んだ。



  

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