還らずの森

〜第二章・10〜



 事務所があるビルとは反対側の位置に、その古びたアパートはあった。
 そのすぐ真後ろには、きれいなマンションが建っているだけに、アパートの
古さが、更に際立って見えた。
 錆びついて赤くなった階段を昇ったすぐ正面のドアの前に立ち、表札を確
認する。
 ――本郷。
 手書きの、きたない字の表札であったが、間違いなくここのようだ。
 前に来たのは、もう二年以上前な為、僕は少し不安だったのだ。



 部屋の中は暗く、人の気配は無い。
 だが、本郷刑事は一時間ほど前に、事務所を出たはずだから、急な呼び出
しがない限り、部屋に帰っているはずだった。
 僕は茶色く変色した、呼び鈴を鳴らす。
 部屋の奥から、小さい音だが、確かに呼び鈴の音が響いているのが聞こえ
た。
 だが、部屋からは返事が無い。
 僕はもう一度押してみる。
「………」
 ドアの前で、僕はため息をついた。
 勇んでここまで走って来たが、用を言う相手がいなくては話にならない。
 本郷刑事は、仕事で呼び出されたのだろう。
 独身の彼には、他にことづける者がいる訳でもない。
 かと言って、いつ帰るかもわからない相手を、ここで待つ訳にもいかない。
 何しろ、明日は学校だってあるのだ。
「…また今度でいいか」
 本郷刑事は、頻繁に事務所に顔を出す。
 なにも今すぐ会わなくても、近いうちに会えるだろう。
 それに、僕が聞きたい事も、急を要するわけでもない。
 そう考えると、わざわざここまで、全力疾走して来た事すら、バカらしく感じ
てきた。僕は帰ることにして、階段をゆっくり降りていった。ゆっくり降りないと
古い階段は、周りに響くほど軋む音が大きいのだ。
「…誰だぁ」
 遠くで、かすかな声がして、僕は足を止めて振り返った。
「新聞はいらねぇよ」
 眠たそうな声の主は、本郷刑事のものに間違い無かった。
 返事がなかったのは寝ていたからなのか。
 僕は慌てて部屋の前まで引き返した。
「ついでにマンションも家も買わねぇ〜」
「本郷さん?」
「金も家族も、ねぇ〜」
「……あの」
「牛乳は嫌いだ〜」
 どうやら訪問販売か何かと思っているようだ。
 思い当たるだけのものを出して、断り続けている。
 夜という事もあり、僕はドアに顔を近づける。
「あの。本郷さん。僕だよ秋緒」
「空き瓶もねぇから回収はいいよ〜」
「そうじゃなくて! 秋緒だよ。遊佐 秋緒!」
 まだ寝ぼけているような本郷刑事に、僕は語調を強くして、ドア越しに訴え
た。
「………」
「本郷さん?」
「秋緒くん……!?」
 ドアが大きく開いて、Tシャツにスエット姿の本郷刑事が、驚いたような顔で
立っていた。ぼさぼさの頭を見ると、早々に寝ていたらしい。
「すいません…」
「あ、いや……ええと、どうぞ」
 本郷刑事に促されて、部屋に通される。
 部屋の明かりが点くと、その辺に座れと言われた。だが、一間の部屋には
小さなこたつ机と、布団が敷いてあり、座る隙間など見当たらない。刑事に
もわかったのだろう。「すまないね」と言いながら、敷かれた布団を、畳まず
そのまま二つ折りにして、部屋の隅に押し出した。
 何とか二畳程度の空きが出来て、僕は言われた通りに腰をおろした。
「どうした?」
「すいません。急に……あの、寝てたんですよね」
「ん。昨日は徹夜だったからさ」
「すいません」
 事件でもあったのだろうか。
 昨日は徹夜で一睡もしていないのなら、こんなに早くに就寝していても、お
かしくはない。
 休んでいた所を、押しかけてしまい、僕は申しわけない気持ちになった。
「いいさ。それよりどうしたの?」
 本郷刑事も、僕の前に腰をおろし、机にお茶をいれた湯のみを二つ置く。
「さっきの事かい? 親父さんが追ってる仕事の」
「違います」
「ん? じゃああの後来た、依頼人の兄さんの事か?」
 僕は首を振る。
 それ以外に、思い当たる節がないのだろう。本郷刑事は、少しだけ首をか
しげた。
「あの…」
「ん?」
「……本郷さんは、僕の母さんがどうして死んだか、知ってますか?」
「………病死でしょ?」
「そうじゃないとしたら?」
 気のせいだろうか。
 本郷刑事の顔が、少しだけ強張ったように見えた。



  

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