還らずの森

〜第一章・10〜



 宮沢の黒い目から、溢れ出す涙を見て、僕は思わず彼女の前に座った。
「どうしたの?」
「ごめんね…」
「何か嫌なこととかあったの?」
 横から宮沢の背中を、軽くさすりながら、美凪が顔を覗きこんだ。
 宮沢は、まだ涙を流しながら、それでも小さく何度も頷いた。それを見た美凪が
「どうしよう?」とでも言いたげに、僕をちらりと見る。
 僕はその視線を無視して、宮沢を観察する。
 父の仕事を継ぐつもりはないから、今まで特に、その仕事について勉強したり
した事はない。
 父も、仕事の内容を軽軽しく話したりもしなかったし、家庭には仕事を持ち込ん
だりもしなかった。
 それでも、事務所で留守番をしたり、電話に出たりとしているうちに、大体の事
はわかってくるものだ。
 ストーカーがらみの依頼も、浮気調査以上に多い事も知っている。
 妨害された、逆恨みらしく、嫌がらせの電話も取り次いだ事があるからだ。
「……今日は、これから予定はあるのか?」
「え?」
 ハンカチで涙を拭いていた宮沢が、少し戸惑いながら顔を上げた。
「なんで…?」
「いいから」
「………ない…けど」
「よし」
 宮沢の言葉を聞いて、僕はゆっくりと立ち上がった。
 美凪が手を貸してやり、宮沢も立ち上がる。
「なんだよ急にー」
 理由も言わない僕に、美凪が不満な目で睨んできた。
「だからさ。取り合えず僕の家に……事務所に行ってみよう」
「ええ? 今から?」
 さっさと歩き出した僕の背中に、美凪の慌てたような声が追いかけてきた。僕
は屋上の扉を開けながら、後ろを振り返る。
「そうだよ」
「でも……いきなりで大丈夫? おじさんは…」
「父さんはいるかどうか、わからないけど。でも東海林さんがいるから」
「そっか」
 美凪は、納得した様子で頷いた。
 宮沢は、もう美凪の手は借りてはいなかった。泣いて話して、探偵に相談でき
るという事になり、少し気が落ち着いたのだろうか。
 僕は、はじめて宮沢の安心したような笑顔を見た。










「さ、狭いとこだけど、上がって!」
「狭くて悪かったな」
 まるで自分の家にでも招待するかのように、美凪が先頭きって事務所の階段
を大股で駆け上がって行くのを、僕は一番後ろからついて行く。
 遊佐探偵事務所は、古いビルの二階にある。
 一階は倉庫らしく、常にシャッターが下りているので、美凪のように、騒がしい
者がいても、迷惑にはならない―――のだが。
 宮沢は、物珍しさと不安や期待で入り混じったような顔で、辺りを、しきりに見ま
わしながら、美凪の後をついて行っている。
「ここだよ。東海林さんいるかな?」
 呼び出しのチャイムも鳴らさず、美凪はノブを回して、真っ先に事務所へあがり
こんだ。
「…あれっ?」
 入った途端、素っ頓狂な声を出した美凪を、後ろから横へと僕は押しやった。
 お世辞にも広いとはいえない事務所の、やや真ん中に置いてある革張りのソ
ファーに座り―――いや、座っていたのが、そのままずり下がったような、だらし
ない格好で、一人の男が熟睡して占領していた。
 僕は、素早くその男の横へ移動すると、顔に乗せてあったスポーツ新聞を、そ
っと持ち上げる。
 一体、いつ切りに行ったか定かではない長さの髪。
 人によっては、カッコ良く見えるヒゲも、この男には、ただの無精ヒゲにしか見え
ない。
 皺だらけのスーツに、これ一本だけだというネクタイを、ぶら下げてるという言葉
しか見つからないような井出たちだった。
 横で三人も寝顔を見つめているというのに、その気配さえ感じないのだろうか。
 男はなおも、軽くイビキをかいて、眠りこけている。
 僕は、軽く息を吸い、男の耳元で、わざと大声で叫んでやる。
「本郷刑事! 事件だよ!」
「…ひェッ!!」
 男は、ソファーから数センチは飛び上がり、その勢いで、派手に尻餅をついた。




  

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