還らずの森

〜第三章・10〜



 狭く、やや急な階段を登る。
 もうここへ越してきて結構経つが、未だに慣れなかった。ただ、幼馴染
は僕よりここを登る回数は少ないというのに、特に気にする様子もなく、
慣れた調子で僕の後をついて来ていた。
 階段を上ったところに、事務所のドアがある。
 それより上が、僕と父が住んでいる部屋になるのだが、.そこへ行こうと
したが、足を止めた。
 聞き覚えのある声が聞こえたからだ。
「失礼します」
 短くそう言ってから、事務所のドアを開くと、案の定そこには本郷刑事が
ソファにだらしなく体を沈めていた。
「よ。お帰り。デートはどうだった?」
「デートじゃないってば」
 本郷刑事が、冗談を言っている事くらいはわかっていたが、一応訂正を
入れておく。
 見ると、事務所には本郷刑事しかいなかった。
「…父さんは?」
「十分くらい前までいたんだけどね。急用みたいだよ」
 そう言いながら、本郷刑事は、壁にかかったホワイトボードを後ろ向き
で指さした。
 そこには、マジックで「急」の走り書きがあった。
 普段はその横に、帰宅時間の予定なども書いてあるのだが、本当に急
用だったのだろう。帰宅時間は書いていなかった。
「なんだ。いないのか」
 僕の声は、多少がっかりとしていたのだろう。本郷刑事が、ちょっと首を
かしげて聞いてきた。
「何か、おやじさんに用があったのかい?」
「う…ん」
「珍しいね。秋緒君が、おやじさんに深刻な話かい?」
「深刻というか……」
「しんこくだよー」
 僕の横に、いつの間にか美凪がお茶を乗せた盆を片手に立っていた。
本郷刑事を見て、その足で給水室に向かったらしい。
 どん、どんと音をたてて湯呑を人数分置くと、僕の横にどっかりと座った。
「へー。深刻なんだ」
「ねェ秋緒。本郷さんにも相談したら? 一応刑事なんだし」
「……一応って…。で、何? 俺にも話があるの?」
「………ええ、まあ」
 本当は、父に話してからがいいのかもしれなかったが、その父はまだ当
分帰る様子がない。
 僕は目の前の男を、ちらりと見た。
 本郷刑事は目が合うと、少しだけ笑ってみせた。
 いつものような、ふざけた雰囲気ではなかった。真面目に聞いてくれる
という合図だった。









 僕は、本郷刑事につい今までの事を、ほとんど隠すことなく話した。
 本郷刑事は、僕の話に一度も口をはさむことなく、黙ったまま時折うん、
うんと相槌をうちながら最後まで聞いてくれた。
 一気にしゃべった僕は、美凪がいれてくれた妙に濃いお茶を、一気に飲
み干した。
「な〜るほどね」
「ね、本郷さんはどう思う? やっぱ、その時あたしの友達の後ろにいたっ
ていうニット帽の男が怪しいって思う?」
 美凪は、さっき僕に怒られたのを忘れていなかったようだが、名前は出
さなくとも、例のニット帽の男は、茂木ではないかと疑っているという事は、
僕にだけわかった。
 僕は、そっと美凪を睨んでから、本郷刑事に聞いてみた。
「それで、その加藤刑事って人、知りませんか?」
 名前だけでも知っていれば…くらいの気持ちだった。
 だが、本郷刑事は妙に神妙な顔つきで短く答えた。
「よく知ってる」
「え? ………友達ですか?」
 よく知っているなら、友達もしくは同僚と思ったのだ。
 しかし僕の言葉を聞いて、本郷刑事は突然ぶるぶるっと震えてから、ぶ
んぶんっと首を振った。
 その奇行に、僕と美凪があんぐりと口を開けているのを見て、本郷刑事は
うなだれ、頭を抱えた。
「どうしたんですか?」
「………から」
「え?」
 聞き取れず、僕はテーブルに手を付き、本郷刑事の目の前に顔を近づけ
た。
「いま、何て言ったんですか?」
「友達なわけねェって言ったんだ!」
「わっ」
 目の前の本郷刑事が、いきなり顔をあげて叫んだのだ。
 僕は驚いて、後ろのソファにひっくり返った。




  


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