還らずの森

〜第三章・7〜



「とにかく!」
 僕が、やや大きな声でそう言って、わざとらしく咳払いをすると、まだ笑っ
ていた羽田や、少し赤くなっていた美凪、そして宮沢も黙って僕に注目し
た。
 部屋の中が、一瞬静まり返る。
 僕は、まだ手を付けていなかったコップを手に取り、一口飲んで、それか
らゆっくりと、全員を見まわした。
「……さっきの、こいつ…美凪の言ったことは大袈裟だけど、僕の父さんは
確かに探偵なんだ。それで、宮沢さんを、父に紹介したのも僕で、今ちょっと
手のあかない父に代わって、僕が色々と調べている最中なんだ」
 羽田は、黙ったまま先ほどとは打って変わった真剣な眼差しで、うんうんと
何度も頷いた。
「宮沢さんは、この春に僕らの学校に転校してきたんだけど、ずっと誰かに
付きまとわれているらしいんだ」
「……マジ?」
 羽田は、驚いたように宮沢を振り返る。
 今度は宮沢が、黙って頷いた。
「例のストーカー、まだ狙ってたんだ」
「羽田さんは、そのストーカーの顔、見たの?」
 美凪が聞くと、羽田は少し困ったような顔を向けた。
「……それさ、警察とか親とかから、さんざん聞かれたんだけどね…」
 羽田はテーブルに両肘をついて、ゆっくりと思い出すように、宮沢を庇って
怪我をした時の事を語り出した。









 去年の秋の事だから、まだ一年経っていない。
 出血の割に、ちょっと縫った程度で、今は小さな禿があるんだ、と羽田は
笑いながら、頭を見せてくれた。
 今にも泣き出しそうな宮沢の背を軽く叩きながら、「もう痛くないから」と、
何度もそう告げる。
 宮沢を庇って、怪我をした羽田は、すぐに救急車で運ばれ、緊急手術をし
た。幸い傷もそう深くなく、後遺症もないという。



「でね。意識取り戻して、ちょと落ち着いたときに警察が来たんだ」
 厳つく、刑事ドラマに出てきそうなその刑事は、加藤といった。
 似つかわしくない花束を抱えており、これは個人的に持ってきただけです
と、わざわざ聞かれもしない事を言ってから、おもむろに事故の事を聞いて
きた。
「それで、あなたはお友達のそばに行こうとして、誤って転んで入って来た
電車に気付かず、掠って怪我をした……という事ですか?」
「全然違うんだけど…」
「どこが違いますか? あなたが前方にいたお友達らしき人に、声を掛けて
いたという目撃情報があるんですよ」
「……確かに、声をかけたけど…」
 あの朝、宮沢は一人で大丈夫だと言っていたが、羽田は何だか心配だっ
たのだ。
 そこで羽田は、宮沢には黙って、そっと後ろからついて来ていたのだ。
 勿論、警察は宮沢がストーカーさしき人物から狙われているなどという事
は知らない。
 施設に迷惑がかかるから…と、警察には知らせないでいた宮沢の言葉を
思い出し、羽田はこの事を告げるかどうか迷っていた。
「……では、誰かに押されたとか?」
「あ、そう。そうです!」
 黙ってしまった羽田を見て、加藤刑事が、違うと主張する部分を訂正して
聞いてきた。
「誰かに押されて、それで転んで、ちょっと電車に掠って怪我したんです」
「……なるほど」
 加藤刑事は、何か言いたげだったが、羽田の言葉を、小さなメモに記して
いく。
「わかりました。それで、その押してきた人物の顔は見ましたか?」
「ううん」
 羽田は素直に首を振った。
「あのね。私の前に、電車を待ってる友達がいたんだけど……その子のす
ぐ後ろに何だか怪しい感じの男がいたから……もしかして痴漢かな?って
思って、声をかけたんだけど……」
「その直後、別の誰かに、あなたが押されたというわけですか」
「はい」
「では、押してきた人物の顔は見てないとしても、男か女かはわかりますか
? ほんの少し、服や靴が見えてたら思い出して下さい」
「……わからないです」
 羽田は、まだ少し痛む頭をおさえながら、思い出そうとしたが、全くわから
なかった。
 本当に突然だったのだ。
 まさか自分が、誰かに押されるなどとは夢にも思わなかったのだ。
 あの時、宮沢のすぐ後ろにいた不審な男こそが、今まで宮沢を苦しめてい
たストーカーに違いないと思っていたからだ。
「そうですか…」
 これ以上聞いても無駄だろうと確信したのだろう。
 加藤刑事は、メモ帳を閉じると、別の事を聞いてきた。
「もうひとついいですか。あなたのお友達の近くにいた、痴漢らしき男の顔
に見覚えはありませんか?」
「後姿だったから…。それに帽子を被ってて…」
「特徴は覚えていますか? 何でもいいですよ」
「えっと……。色は忘れたけど、でも若い格好だったし、白いニット帽してた
から、おじさんじゃなと思う……。背も高かった気がする」
「わかりました。ご協力感謝します」
 加藤刑事はおもむろに立ち上がった。
 検診の為、看護師が入ってきたからだった。




  


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