還らずの森

〜第二章・16〜



「どうぞ」
「すいません」
 僕はそう言って頭を下げたが、差し出されたコーヒーに手をつけずにいた。
 差し出した女性は、僕達を代わる代わる見てから、小さく息を吐いた。
「…婚約者ねぇ……」
 そう呟き、何かを思い出すように目を閉じたが、すぐに開いて頭を振った。
「聞いてませんか」
「ええ。由希ちゃんにそんな人がいたなんて、聞いた事ないわ」
「じゃあやっぱり人違い?」
 少しホッとしたような目で、宮沢は僕を見た。
「もしくは、やっぱスト…」
「美凪!」
 つい先ほど、その言葉で宮沢を怯えさせた事を忘れたのだろうか。
 僕は、幼馴染を軽く睨む。
 美凪は「へへ」と申し訳なさそうに笑って、肩をすくめてみせた。









 僕達は、宮沢が世話になっている施設に来ていた。
 施設というものが、どんなものかわからなかったが、ここは白っぽい清潔
そうな建物で、小さな庭もあり、外からは普通の二階建ての一軒やに見え
た。
 落ちてきた植木鉢や、突然の婚約者の出現で、宮沢は腰を抜かしてしま
ったのだ。そうでなくとも、気を張っていたのだろうから、それも当然だろう。
 その後は、駅やら通学路やらを調べる予定だったが、予定を急きょ変更
して、この施設に来る事になったのだ。
 突然の訪問者に、施設の女性は快く招き入れてくれた。
 まだ若く見えたが、ここの園長なのだという。
「由希ちゃんが、お友達を連れてくるなんて久しぶりね」
 園長は、嬉しそうにコーヒーを啜りながら、僕をチラと見て、意味深な笑み
を浮かべた。
「それに…男の子を連れてきたなんて、はじめてじゃない?」
「……遊佐君は、クラスメイトです」
 宮沢は、少し赤くなって下を向いてしまった。
 そんな宮沢を楽しげに見てから、園長はまた僕を見た。
「で。その婚約者って人は、何て言う名前なの?」
「茂木 衛というそうです」
「もぎ……まもる?」
「知ってますか?」
 名前に反応した園長を、僕は見逃さなかった。聞き覚えでもあるのだろう
か? だが、園長は先ほどと同じように、首を振った。
「いいえ。もぎさんなんて聞いた事ないわ」
「そうですか…」
「ごめんなさいね。お役に立てなくて」
「いいえ」
「でも、人違いにしても、何だか怖いわね、その人…」
 園長は心配そうに宮沢の顔を覗きこむ。
 宮沢も、小さく頷いた。
「大丈夫ですよ! あたしらがガードしますから!」
 美凪はそう宣言すると、宮沢の背中をどんと押した。その勢いで、宮沢は
前によろけ、テーブルに両手をついた。
「だから心配ないですよ!」
「美凪さん…」
 園長は、ちょっと目を丸くしてから、その目を細める。
「頼もしいお友達ね。じゃあ大丈夫かな?」
「はい! お船に乗ったつもりで任してください」
「大船、だろう」
 僕がすかさず訂正を入れるが、美凪は聞こえていないようだ。こいつは、
本当に大学に進学するつもりなんだろうか?
 僕らのやり取りを園長は声を立てて笑い、部屋へ入れてあげたら、と提案
した。
「あ、でも舞が」
「舞ちゃんは、今日は部活で遅くなるそうだから」
「じゃあ…良かったら」
 舞、というのは、宮沢の同室の人だろうか。
 きれいな部屋に一瞬我を忘れたが、ここはホテルなどではなく施設だった
のだ。見知らぬ他人と、同室になるのは、ここでは当然なのだろう。
「遊佐君?」
 宮沢に呼ばれて、僕は振りかえった。
「部屋は二階なんだけど」
「…あ。ああ、ごめん。その、トイレ貸してもらえるかな」
「トイレはこの廊下の突き当り左よ。じゃあ先に部屋に行ってるね。ドアに
名前が書いてあるから」
「わかった」
 宮沢と美凪は、そのまま二階へと上がっていった。
 二人を見送る僕に、園長が声をかける。
「トイレはね…」
「すいません。ちょっと聞きたい事があるんですけど」
 僕は園長を振りかえり、言葉を遮った。




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