還らずの森

〜第二章・15〜



「…あの。私、人違いです」
 宮沢は、そう言うと、茂木の手を振りほどき、数歩下がった。
 明らかに困惑しているようだった。
 白い顔は、紅潮している。
 そんな宮沢を茂木は特に気にする風でもなく、ちょっと首をかしげて、少
しだけ笑った。
「仕方ないか。子供の頃の話だし」
「……え」
「でも、忘れてしまったのは、その事だけで、俺の事は覚えているだろ?」
「い、いいえ。あのっ…」
 宮沢は、更に困惑したように、首をふる。
「すみません。あの。やっぱり人違いです……私…」
「君、宮沢由希だろ?」
「え、はい」
「じゃあ、俺の由希だ」
「………」
 きっぱりと断言されて、宮沢はそれ以上、何も言えなくなってしまったら
しい。そして、何とか目の前の男を思い出そうとしているのだろう。黒い瞳
を目いっぱい開いて、男の顔を凝視した。
 だが、思い出す事はできなかったらしい。
 俯いて、小さく首を振った。
「あのー」
「なに?」
 宮沢の後ろから、躊躇いがちに美凪が片手をあげて割りこんだ。
「あのさ。よくわかんないけど、やっぱ人違いなんじゃない? だって宮沢
がわからないって言うんだし。別の人だと思う。ほら同姓同名ってやつ?」
「それはあり得ない。由希は由希だ」
「だからー。ちゃんと確認して…」
「それに、よくわからないというなら、口出ししないでもらいたいな。お前に
は関係ない事だろう? これは俺と由希の問題だ」
「……!」
 この茂木の言い方に、美凪はカチンときたらしい。両肩を上げ、口の端
をギュッと結んで、茂木を睨みつけた。
「なにそれ。あたしと宮沢は友達なんだよ! 関係なくないよ!」
「友達でも、男と女の話に割り込んでいいわけないだろう」
「いいのっ!」
「美凪っ!」
 興奮して、茂木にくってかかる美凪を、僕は慌てて止めに入る。
 人通りは少ない場所だが、それでも道行く人が、怪訝そうに僕らを遠巻
きで見ていた。
「なに興奮してるんだよ。すいません茂木さん」
 茂木に謝る僕を見て、美凪が何か言いかけた―――が、その口を片手
で塞いだ。横から美凪が僕を睨んでいるのが、見なくてもわかった。
「あの。茂木さん、すみません。私も人違いだと思うんです。だって私、全然
思い出せないし……」
 おずおずと、小声で茂木に伝えた宮沢を、茂木は少し困ったように見下ろ
した。
 そして、小さくため息をつく。
「…そうか」
 人違いを認めたのか、諦めたのか、そう僕らは思ったが、茂木の考えは
僕の想像を超えていた。
「成る程。由希は記憶喪失なわけだ」
「…は?」
 僕も、美凪も宮沢も、何の事かと茂木を見つめた。
「記憶喪失なら仕方ない。でも何としても思い出させてみせるよ。由希」
「あの…私は」
「じゃあ、また」
「あの」
 激しく勘違いをしたままの茂木を、引きとめようとしたが、彼は言うだけ言
うと、くるりと踵を返して、駅方向へ歩いていってしまった。
「………なに、あの人?」
「さあ?」
 事務所に来た時も思ったが、捉え所がない男だった。
「ごめんね」
「え? なに?」
 今にも泣きそうな声で、宮沢が謝った。
「私のせいで、変な事に巻き込んじゃったし」
「鉢植えの事? それとも、まもるさんの事? どっちも宮沢のせいなんか
じゃないじゃん」
 その通りだ、と僕も頷いた。
「うん…。でも。でも私、あの人しらない」
「全然?」
 宮沢は無言で頷く。
 茂木は、宮沢を婚約者だという。結婚の約束までした間だ。その相手の
顔を忘れるという事はないだろう。
 宮沢が、本当に忘れ去ってしまったのか。
 茂木の人違いなのか。
 少し怯えた顔の宮沢を見ながら、僕が考え込んでいると、パンと手を叩く
例の軽快な音が響いた。
「わかった!」
「……なにが」
「あの人、例のストーカーなんだよ!」
「!!」
 まさか、と僕と宮沢は顔を見合わせた。
 宮沢の白い顔が、恐怖に震えていた。



  

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