還らずの森

〜第二章・8〜



「へぇ…。そんな事がねぇ」
 音もなく美凪がいれたコーヒーを啜ると、父は一言そう呟いた。
 僕と美凪は、事務所に戻り、ついさっきまでここにいた妙な依頼人の事を、
父に話していた。
 呟いたきり、じっと何かを考えるような顔で、テーブルに置いたコーヒーカップ
を見つめていた父だったが、おもむろに顔を上げると、心配そうな僕達を見て
いつものように、にっこりと笑った。
「留守番、大変だったね」
「…別にそんなことないけどさ。無理にでも引き止めておいた方が良かったか
な」
「いや、それはいいよ」
 父はすぐに首を振る。
「用があるって言ってたんだろ? 引き止めてはいけないよ」
「でも…」
「秋緒が心配する事はないだろう?」
「それは…そうだけどさ」
 これは父の仕事だった。
 僕はあくまで留守番をしていただけで、ここの従業員でも何でもないのだか
ら、引き止めて話を聞いたりする必要もないし、してはいけなかった。
 それは僕もわかってはいる。
 父も東海林さんも、今日のような事があっても、特に何も言わなかった。
 だから父が言うように、僕が心配したり気にする必要はなかった。それなの
に、なぜ今回に限って、こんなにも気になるのだろう?
 そして、もし自分が父の後を継いで探偵になるつもりであれば―――そこま
で考えて、僕は慌てて首を振った。
 僕は探偵なんかになるつもりはないのに。
 そうだ。
 こんな事考えなくてもいいんだ。
 僕が、自分に言い聞かせているその横で、ずっと黙っていた美凪が、突然
ポンと手を叩いた。
「あ! そうかも!」
「え?」
 いきなり大きな声を出した美凪を、僕も父もぎょっとして顔を上げた。
 当の美凪は、そんな僕たち親子の視線などお構いなしに、また立て続けに
ポンポンと手を叩いた。
「そうかも、そうかも!」
「……何が?」
 奇異な目を幼馴染に向ける。
 その美凪といえば、重大な結果でも発見した科学者のような満面の笑みで、
僕を振り返った。
「あの人さ! あたし見たかも」
「あの人って……さっきの茂木って人の事?」
「そうそうそう!」
「…どこで?」
 僕には記憶が無いが。
 すると、美凪は待ってましたとばかりに身を乗り出すが、なぜか囁くように声
をひそめた。
「あのさ。あの人、今日学校に来てた人だよ」
「……職員室?」
「違う違う。ほらー、校庭に入って来た不審者だよ!」
「え…?」
 僕は、数時間前の出来事を思い返す。
 背の高い、帽子を目深にかぶった若い感じの男だった。だが、遠目だったし
直接顔を見たわけでもない。
「あのなあ。一致するのは帽子をかぶってた所だけじゃないか」
「絶対あの人だったって!」
「おい…」
「あたし、あの人をはじめて見た時、ピンときたもん」
 美凪の勘が当たっているなら、帽子を目深にかぶった男は、全員校庭に入
りこんだ不審者になってしまう。
「…じゃあ仮にさ。茂木さんがその不審者で、うちの学校に来たとして、何で
その人がうちに来るんだ?」
「そんな事知らないよー。不審者だって、悩みはあるよ」
 それはそうだが。
 自信満々な美凪を横目に、僕はそっとため息をついた。
「それにしても、不審者だって?」
 父が、その事だけに注目したらしく、そう言うと僕を見た。
「秋緒。美凪ちゃんをアパートまで送ってあげなさい」
「なんで僕が」
「大丈夫だよ。近いし」
 だが父は無言で首を振った。
「不審者が近くで出たなら、尚更だよ。お母さんも心配するからね」
 あのおばさんが、心配するだろうか?
 そうも思ったが、口には出さず、僕は立ち上がるとそのままドアへ向かった。
美凪もその後から、慌ててついてきた。







「なんかさ。気になっちゃうよね」
「ああ…」
 美凪が、何の事を指して言っているのか、聞かなくてもわかっていた。
 あの茂木という依頼人のことだ。
「また彼女連れて来てくれるかな」
「さあ…どうだろう」
 曖昧に答えたが多分、彼は二度と事務所へは来ないような気がしていた。



  

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