還らずの森

〜第二章・6〜



 男の眼に、不穏な色が見えた気がして、僕はぞくりとした。
 何故かはわからないが、危険な感じの男に思えた。だが、この依頼人を、
ひとりで事務所に置いておく訳にもいかず、僕は無言で男の前のソファに腰
かけた。
 目の前の男も、無言でコーヒーをすすっている。



 僕はここの従業員ではない。
 秘密厳守であるこの仕事に、たとえ所長の息子であっても、口を出したりし
てはいけないことぐらい、言われなくてもわかっていた。
 壁にかかっている時計の針ばかりが、妙に響いていた。
 何か話した方がいいのだろうか。
 僕は、ちらと男を盗み見る。
 どんな依頼をしに来たのかはわからないが、何か深刻な悩みがあるように
は見えなかった。何か悲しみにくれているわけでもない。何かに怯えている
ようでもない。
 銀行かどこかの待合室で、退屈そうに座っている青年のようにしか見えな
かった。
 賑やかな幼馴染と違い、僕は静かな環境を好んだ。
 だが、こんな無言の息詰まる状態は居心地が悪い。
 それならば、何か話題を振ればいいようなものだが、実のところ、僕は口
下手な方なのだ。全くと言っていいほど、話題が浮かばない。
「君、S高?」
「え?」
 いきなり声をかけられて、僕は驚いて顔を上げた。
「S高じゃないのか?」
「え…ああ、はい。S高校だけど。でもどうして…」
「制服」
「……ああ」
 どうやら、僕の制服を見て、S高校の生徒だとわかったようだ。
 だが、これで話題の突破口が見えた気がした。
 今度はこちらから、質問してみる。
「あの…。あなたもS高出身なんですか?」
「いや」
「…あ、じゃあN高かA高?」
 どちらも、僕の通う高校の近くだ。
 しかし男は首を振り、またも短く答えた。
「俺、この辺の高校じゃないから」
「ああ…そうなんですか」
「……」
「……」
 突破口と思ったが、それはあっけなく終わってしまった。
 男は、もう僕に興味をなくしたのだろう。
 何か考えるように、事務所の窓の方をじっと見つめて黙り込んでしまった。
 父が帰って来るまで、まだ時間はある。
 その間、このままなのだろうか―――と、少々憂鬱になった時、二階の事
務所のこの場所まで響いてくるような、乱暴な足音が近づいてきた。
 そして、呼び鈴もノックもなく、すっかり我が家のような顔で、幼馴染が大き
くドアを開けて入ってきた。
「おじさん、いるー?」
「おい。美凪!」
 僕は無遠慮過ぎる美凪を、睨んだ。
 美凪も、僕の前に座る見知らぬ男に気付いたのだろう。ちょっとだけ肩をす
くめてみせた。
「あ。やべ。お客さんだ」
「やべ、じゃないよ。お前何しに来たんだよ。帰れよ。父さんは外出中でまだ
帰ってこないから」
「冷たいなー。おかず持ってきてあげたのに」
 美凪は持っていた紙袋から、小さなタッパーを取り出した。
「…サンキュー」
「いいってことよ」
「何言ってんだ…」
 美凪はたまに、こうやってお惣菜を差入れに来てくれる。美凪の手作りで
はない。彼女の母親が、僕の死んだ母親と仲が良く、僕達を気にかけてくれ
て差し入れてくれるのだ。
 男所帯で、簡単な食事しか用意しない僕達にとって、この差し入れはとても
有り難かった。
 まだ温かいタッパーを受け取ると、僕は美凪をドアへと導いた。
「おばさんに宜しく言ってよ」
「あ、なんだよ。今来たばっかなのに」
「だから客が来てるんだって」
「あたしいたっていいじゃんか。ね?」
 美凪は僕の手を振り解くと、強引に部屋へ押し入り、ソファへどっかりと座り
こんだ。
「こんにちはー」
「…やあ」
 男はいきなり乱入してきた美凪の出現に、少し戸惑いを見せたが、返事を
かえした。
「あたし、ここの事務所の見習いなんだ。あ、こっちの秋緒も一緒なんだけど。
美凪っていいますー。よろしくー」
「おい…!」
 今度はいきなり、嘘を言い始める美凪に僕は慌てた。
「お兄さんの名前は?」
「……茂木 衛」
 男は、そう名乗った。



  

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