還らずの森

〜序章〜



 一体どこまで走れば、ここから出られるのだろうか?
 電灯も何も無い、一メートル先すら見えない森の中を、うっそうと生い茂る木々の間の
わずかな月明かりだけを頼りに、少女はわき目もふらずに走って行く。
 もうどれだけ走って来たのだろうか。
 それさえもわからない。
 だが、どうしても「逃げなければ」ならなかった。
 太い木の幹を押し退け、苔で滑る足元をよろつかせながら、それでも少女は前に向か
って進んでいく。
 その時、足に軽い痛みを覚えて、はじめて少女は立ち止まった。
 靴が片一方なかった。
 小さなリボンのついた、少女のお気に入りの赤い靴だった。
 白い足には、無数の切り傷で血が滲んでおり、つま先は血と泥で茶色く染まっている。
だが、不思議な事にあまり痛くはなかった。
 それよりも―――と、少女は来た方向を、そっと降り返る。
 森の中は、暗く何の音も声もない。
 まるで少女だけが、そこに取り残されたように、ぽつんと立っているだけだ。

――靴、どこに落しちゃったんだろう?

 とても気に入っていたのに。
 もう「あいつ」は追って来ないのかもしれない。
 今から探しに行けば、すぐに見つかるだろうか?
 少女は、誘われるように、来た方向へ足を一歩踏み出す―――と、その時、遠くから
何か草を踏むような、音が聞こえた。
 少女は足と息を止め、耳を澄ます。
 だが、もう音はしなかった。

――気のせい?

 全く風のない夜だった。
 少女の額から、汗が一筋流れ落ちる。
 まだ春とはいえ、夜は気温が下がり肌寒いが、少女は寒さを感じなかった。だが、さき
程の音に、少し前の現場を思い出し、背筋から首にかけて、まるで氷でも伝ったように
ぞくりと寒くなった。

――気のせいじゃない。あいつだ……!

 少女は、そっと傍にあった木にしがみ付く。

――追って来たんだ。

 ここまで逃げて来たのに。
 あいつは、まだ追って来ている。
 少女は、ふらりと木から離れる。ぐずぐずしている場合ではなかった。どんな事があって
も逃げなければ、殺されてしまう。
 
――人殺しが、追ってくる!

 少女がもっと小さい頃から、よく聞かされていた言葉を、思い出す。
 悪戯した時、言う事を聞かない時。
 大人達は、決まってこう言うのだ。


「悪い子は、森に連れて行くよ。森にはヒトゴロシが住んでいるんだ。だから、誰も森には
近づかない。入ったらヒトゴロシにコロされるんだからね」


 大人達の言っていた事は、本当だった。
 信じていない友達もいたが、今の少女なら、それは本当だと証明できる自信があった。
 人殺しは本当にいた。
 少女は、その人殺しに追われているからだ。

――だから、大人達は、森に入っちゃいけないって言っていたんだ。

 だが、今更悔やんでもどうしようもなかった。
 今から戻れば、きっと見つかり殺されるだろう。
 少女は、音を立てないようにまた前に進もうとして、また立ち止まる。
 先ほど、降り返った時に、どの方向から来て、どちらに向かっていたのかわからなくな
ってしまったのだ。
 慌てて周りを見回すが、同じような木がぐるりと取り囲んでいるだけで、全く見当がつか
ない。
 ここまで来るのに、何か目印を付けて来た訳でもない。
 がむしゃらに、走って来たのだから。
 それでも、何となく立ち止まる直前に、見たような気のする木を見つける。

――多分、こっちでいいはず…。

 間違って元来た方向なら、あいつにばったり会ってしまうかもしれない。
 そうも思ったが、少女は自分の勘を信じることにした。
 どちらにしても、ここに留まっているわけには、いかなかった。
 少女は、意を決して、また走り出す。
 このまま進めば、きと出口があるはずだ。
 そこは、人が大勢いて、少女を助けてくれるだろう。

――逃げなくちゃ。
――逃げて、助けてもらって……あいつの事を、話さなくちゃ。




 少女は、もう振り返らなかった。
 どこまでも続く、深い緑の森の中を、ただ一人わき目も振らずに走って行った。




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